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日蓮って 第5章

1 :政教分離名無しさん:02/01/31 23:57
日蓮って ver.4
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1009914905/

74 :名無し ◆QY3UtxFI :02/05/28 01:21
sage で進行

75 :乾闥婆:02/05/28 01:31
すみません。

76 :名無し ◆QY3UtxFI :02/05/28 01:50
.

一週間ぐらいかかる(・_・)。

77 :名無し ◆QY3UtxFI :02/05/29 22:05

.
>あのような激しい他宗批判が可能となったのでしょうか。
>蓮祖は「非仏説の存在は当然認識していた」けれど、
>それを「主体的に解釈」することによって乗り越えたのでしょうか。
>それともそのような説は単に「事実」として否定されたのでしょうか。

他宗批判については、延暦寺法華宗の正統なる復興者としての自覚、使命感から、奈良・平安の旧仏教及び、大聖人在世の浄土集も含めて批判していくのは必然的なことに思えます。

大聖人は大乗非仏説という批判があったことは認識していた。にもかかわらず法華最勝の判断が変らないのは「天台の教判」に対する評価が、それによって揺らぐことがなかったからではないでしょうか。


78 :名無し ◆QY3UtxFI :02/05/29 22:07
.

『五時八教の教判は、現在その根拠を失っているから大聖人の教説も根拠を失っている』という批判について(・_・)。

「五時説」に対する批判についてはここでは言及しない。

理由は
1) 五時判が経典の教説順序を示すだけならば、これは論理的構造が無いから教判として検討する意味がないと考えるから。

2) 「四十余年未顕真実」の無量義経が中国撰述の偽経であるという指摘を否定するのは困難だから。

3) そうすると「法華経は在世には説かれなかった」という批判も受け入れるということになる。

4) しかし一方で「加上説」(富仲永基)による大乗非仏説は大乗に致命的打撃を与えていないと思う。


79 :名無し ◆QY3UtxFI :02/05/29 22:08
.

「八教判」とは経典に説かれる思想内容を評価してランク付けされている。

1) 一切経を「蔵・通・別・円」のランク付けする基準は「空」観である。
これにより蔵経の「析空」から円教の「円融三諦」までの評価が決められている

2) 空観に依って価値判断するということはどういう意味なのだろか。
蔵経の空を例にすれば、小乗(蔵経)の空とは現象世界を仮と観るためのものである。仮の世界を煩悩と観て厭離するための方法として機能する。
一方、菩薩道を説く経典の空は「業・輪廻」をも空であると否定する。志向する所は敢えて涅槃に住することない俗世間で利他の実践である。
説くところの種々の空観の差異が結局、異なる世界観・価値観として現われてくるということかもしれない。

3) 教判が経典の思想内容によって判釈されるなら上記の富仲の批判も、「無量義経」偽撰説も致命的批判とはならないのではないかと思う。



80 :名無し ◆QY3UtxFI :02/05/29 22:31
.
自己レス(~_~メ)。

誤)富仲永基
正)富永仲基

81 :test:02/06/01 03:05
test

82 :ひゃっきまる:02/06/01 03:11
名無し ◆QY3UtxFIさん
>>65

 二年前、ということは、僕も知っている方でしょうか・・・? もしかしたら
みさきさんですか? どちらにしろ、(たぶん)おひさしぶりです。様々な文献
ありがとうございます。大変勉強になります。

 御指摘の2点について、確かに名無しさんの言うとおりだと思います(僕はこ
の2点を主張したことはなかったと思いますが)。ただ、それはそれとして現代
において日蓮の説が致命的に説得力を欠いている、ということの反論にはならな
いと僕は思っています。


83 :ひゃっきまる:02/06/01 03:12
>>65-66
 ですが、日蓮が例え『一言一句皆真実だと』思っていなかったとしても、釈尊
が法華経を説いた事は事実であったと考えていたはずでは? 歴史の変遷や、訳
者の誤訳があったとしても、法華経の本質は保たれていると考えていたはずで
す。また、その「保たれた本質」を信じた上で、「原理主義的に」法華経を解釈
していたと考えなければ、日蓮の思想や行動(特に激しい他宗批判)を理解する
ことは困難です。

 法華経の本質とは、例えば
1・法華経こそが唯一であり、他の経は捨てるべきであること
2・釈尊を永遠の仏として信仰するべきであること
3・(基本的な前提として)釈尊が法華経を説いたこと

 などであると思いますが、現代の基本的な仏教史観では、歴史上の釈尊がこの
ようなことを言ったことはかなり考えにくい(というよりほとんどありえない)
とされています。

 これらを否定されることはキリスト教信者にとって「イエスの復活はトリック
であることが判明した」と言われるようなもので、信仰の根拠を失うものです。

84 :ひゃっきまる:02/06/01 03:13
>>67-72
 についても、日蓮は知ってはいても、実際には大乗非仏説を採用していなかっ
たのだから、そして現代では非仏説(というより非釈迦説ですが)が歴史学・考
古学的には圧倒的に説得力を持っているのだから、やはり現代においては日蓮の
主張は受け入れにくいのではないでしょうか。

85 :ひゃっきまる:02/06/01 03:15
>>78-79
> 教判が経典の思想内容によって判釈されるなら上記の富仲の批判も、「無量
義経」偽撰説も致命的批判とはならないのではないかと思う。

 このような見方はこの板でもしばしば聞く事があります。ハキリさんその他の日
蓮宗の方々がよく言っているようですね。現代において納得できる形で日蓮説を
存続させていくためには、この道しかないのかもしれません。ただ、僕はそれを
見るたびに「どーもおかしい」と思うのです・・・。

 例えば「空観」であるとか「円教」であるとかは、確かに一つの説であるには
違いありませんが、それが絶対正しい、という類のものなのでしょうか? 古今
様々な「哲学」がありましたが、哲学者達は自説を述べた後で、「これが唯一正
しい」とは言いません。たとえ本人が絶対これだ!と思っていても、こうしたこ
とは数学の問題のようにただ唯一の答えが導けるという類いのものではないで
しょう。

 法華経の強い信仰心の源は、やはり法華経に書かれている内容が事実であると
信じるところからなのではないでしょうか。それを否定して(五時を否定して)
信仰が成り立つとは僕には思えないように思います。そのような意味では「大聖
人の教説」の一番大事な部分はやはり「失われて」いるのではありますまいか。


86 :乾闥婆:02/06/02 00:23
>>77-79
確かに天台の教判を価値判断の基準としてみる限りは、
力のある考え方だと思いますし、私自身も支持するところですが、
蓮祖聖人が果たして天台の教判をただの価値基準に限定して考えていたでしょうか。

「無量義経」の「四十余年未顕真実」を蓮祖自身が「事実」として読んでいる以上、
大乗非仏説を結局のところ「事実」として退けているのでしょうし、
それ故の、激しい他宗攻撃であったのではないでしょうか。

自己の宗派のみの正義を主張したりするのでなければ、
現在でも魅力ある宗教だと私は思っています。

87 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/02 02:36

ななし=みさき 。(^o^)丿

>>82
>日蓮の説が致命的に説得力を欠いている、ということの反論にはならないと僕は思っています。

もちろん、ひゃきさんの主張をくつがえすことは出来ません。
理由は、「説得力を欠いてる」というのは評価の問題なので基本的に各個人の価値判断によるものですから、論証の対象とはなりませんね(^_^;) 
ですから、他者が出来る範囲は、『前提条件→判断』における、前提となる事実認識に誤りがあればそれを批判論証することでしょう。


88 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/02 02:37
>>83

>日蓮が例え『一言一句皆真実だと』思っていなかったとしても、釈尊が法華経を説いた事は事実であったと考えていたはずでは?

>法華経の本質は保たれていると考えていたはずです。また、その「保たれた本質」を信じた上で、「原理主義的に」法華経を解釈していたと考えなければ日蓮の思想や行動(特に激しい他宗批判)を理解することは困難です。

これは前レス以上に言及する根拠・能力がありません。(・_・)
ただ「日蓮は法華経寿量品に説かれる久遠の仏」を信仰していたということは確かでしょう。
そしてそれを、歴史上の釈迦より上位の存在と考えていたでしょね。法華経上の釈迦が対象となる以上、現代の視点から見れば「大聖人は歴史上の釈迦を知らない」し「インド仏教を知らない」と言われるかもしれません。


89 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/02 02:38
>現代の基本的な仏教史観では、… 歴史上の釈尊がこのようなことを言ったことはかなり考えにくい(というよりほとんどありえない)とされています
>これらを否定されることはキリスト教信者にとって「イエスの復活はトリックであることが判明した」と言われるようなもので、信仰の根拠を失うものです。

日蓮を含めて中世日本の仏教徒が「歴史上の釈迦」と「経典上の釈迦」という二種の概念を区別していたのは、おそらく仏身論としての「応身」や「法身」としてであって、インドに実在した「釈迦個人」として把握するという発想自体は希薄だったでしょう。
そうすると、「歴史的個人」と「応身」としての釈迦を区別して考えるという発想は無かったかもしれません。『歴史上の釈迦=応身』。そうすると「法華経は実在した釈迦の言葉とは思えない」という感覚は当時の仏教徒には起りにくい疑問でしょう。

で、現代人の観点からのそのような疑問を起こして「信仰を捨てる」人がいるかどうかわかりません。日蓮と同様に法華経に説かれる「永遠に娑婆世界で説法し続ける仏に対する信仰」は現代の信仰者でも変らないのでは。


90 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/02 02:45
>>84
>現代では非仏説(というより非釈迦説ですが)が歴史学・考古学的には圧倒的に説得力を持っているのだから、

大乗非仏説という批判の前提には経や律の内容に対する差異とそれらのの担い手の問題の二点があると思う。

経典の内容・形式面から、たとえば「スッタニパ−タ」と「法華経」を較べたらこれが同一の釈迦のものだろうか?という違和感は確かにある。それでは同じ、
阿含経のたとえば「沙門果経」と「法華経」と較べたらどうでしょう?。

前者は三明・六通という仏の超能力を語ります。三明では過去世や輪廻する衆生の姿を透視したり、
六通でも様々な超能力を語ります。両者のオカルト度に差はありません。(^_^;)

ですから表現形式だけでは大乗と小乗の区別はつけられません。


91 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/02 02:46
むしろ、決定的なのは、大乗の担い手の問題でしょう。以前「バウッダ」をめぐって多少議論したように、小乗は「歴史上の釈迦の作った比丘の僧迦(サンガ)に起源を持つ」が一方大乗は、「釈迦滅後の在家の仏塔信仰に起源を持つ」(平川説1968)
から釈迦と断絶があるから非仏説という批判。


92 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/02 02:47
たしかに「バウッダ」を含め巷の概説書・入門書には、いまだに、そのような見解が述べられております。しかし、もはや現在のスタンダ−ドとは言えないみたいです。(^_^;)

紀元前後からおびただしい大乗経典が出現しますが、その主体者である大乗教団の存在を示す資料や碑文が紀元4〜5世紀まで存在しないというミステリ−(゚゚)。

平川説の予想するような大乗教団「菩薩ガナ」が、空白の数百年間、仏塔周辺に止住して教団を作っていた、ということを証明するに足る証拠は皆無といえます。(これが仏塔起源説の最大の難点)


93 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/02 02:47
それでは、膨大な大乗経典群の作者達はどこに居たのでしょう?。

1975年以来、一貫して平川説を批判してきた米国のG・ショペンは、
@ 「大乗教団」はすくなくとも4世紀までは存在しなかった。
A 4〜5世紀まで、大乗経典の作者達は、小乗の各部派内に存在していた。
というショキングな内容の見解を発表しました。

つまり、部派内部の比丘が大乗的な思想を持ち、大乗経典の作成を始めるようになった(゚o゚)。
ということは、大乗と小乗という二元的把握の消滅を意味します。現在の研究者達が、いまだに平川説をスタンダ−ドと見ているかは大いに疑問です。

近年の研究図書を紹介します。

グレゴリ−・ショペン  大乗仏教興起時代 インドの僧院生活 春秋社(2000/7)      http://www.shunjusha.co.jp/book/11/11202.html

下田正弘   大乗涅槃経の研究  大乗経典の研究方法試論 春秋社(1997/2)
http://www.shunjusha.co.jp/book/11/11193.html


94 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/02 02:49
>哲学者達は自説を述べた後で、「これが唯一正しい」とは言いません

宗教のいう唯一絶対は宗教レヴェルという「限定された範囲」の中で言い得るわけでしょう。
 
>法華経の強い信仰心の源は、やはり法華経に書かれている内容が事実であると
信じるところからなのではないでしょうか。それを否定して(五時を否定して)
信仰が成り立つとは僕には思えないように思います。

五時説を否定しても、また、「四十余年未顕真実」の無量義経が偽書であっても、
教判が「思想性」を基準にしている以上、「普遍性」が確保されているわけだから日蓮の思想がダメ−ジを受けるとは思えないです。
むしろこの判断の差(私とひゃきさんの差)は、「教説の内容・解釈」から生じているというより、「信仰」と「教説それ自体」の相互の意味関係や評価の差異がベ−スにあるように思われますが。


95 :乾闥婆:02/06/02 10:57
>>91-93
「バウッダ」は三枝氏の「バウッダ」ですか。
部派から大乗への流れは、私はその本でしか確認していないのですが、
部派内部から大乗経典の制作がなされたというのにはちょっと驚きました。
仏塔信仰からの大乗経典制作は証拠となる資料がないのですか・・・
逆にそのグレゴリー・ショペン氏の説には裏付けがあるのでしょうか。
紹介された本を読んでみればそのあたり、分かるのでしょうか?

>>94
>宗教のいう唯一絶対は宗教レヴェルという「限定された範囲」の中で言い得るわけでしょう。

もちろんその通りです。
ところが宗教は得てしてその「限定された範囲」を飛び越えて主張されてしまいます。
創価学会が問題とされるのも、
「限定された範囲」を超え出て「折伏」が行われるからでしょう。
「限定された範囲」の拡大が組織の使命となっている場合、
その「唯一絶対」は内部のみで言い得る、という言い方は許されないと思います。

96 :ひゃっきばる:02/06/02 23:12
よぅ!! ひゃっきまるん君♪じゃん! 元気イ?
ちょうど良い所に来てくれた。(藁)
このAAを見てくれ。↓


             _人
           ノ⌒ 丿
        _/   ::(
       /     :::::::\    
       (     :::::::;;;;;;;)_  
       \_―― ̄ ̄::::::::::\    ...ひゃっきまるん君♪
   \  ノ ̄     ::::::::::::::::::::::)  /
     \(     ::::::::::::::;;;;;;;;;;;;人/
     / ̄――――― ̄ ̄::::::::\
    (    ● \__/::●:::::::::::::)
     .\__::::::::::\/;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ



この、ひゃっきばる様が一晩中、キバりにキバって唸りながら、
作ったAAだ。”ムリムリムリっ”とな。
(真っ赤な血が出・・・イヤ、真っ赤なウソ)

ひゃ、ひゃひゃ、ひゃっきまるん君♪に命ずる・・・。
このAAのついての感想のレスを書け。(オネガイ♥)
これは、ひゃっきばる様の命令だ。背く事は許されない。

97 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/03 23:23
>>95

『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』G・ショペン は、訳者のまえがきによれば著者が大谷大学の客員教授時の1996/1997の両年に特別セミナ−・公開講座として講演したときの内容の日本語訳だそうです。
 
本書のテ−マはあくまでインドの二〜四世紀における僧院生活の様子を述べたものです。
たとえば比丘たちは『私有財産を持っている』(自己の所用物に押印するため、金や水晶製の印鑑を所用、使用していた)、や『比丘は葬儀に関与している』などに言及し、従来の定説?を反証しています。

大乗の起源に対する言及部分は以下のようなものです。




98 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/03 23:25

二〜四世紀を通じてのインドに関しては、小乗の部派が、土地の寄付、僧院、基金、奴隷、村、遺骨、仏像等々の寄託物の受領者となったことを述べた多くの碑文が残っています。
しかし、五世紀末あるいは六世紀初頭に至るまで、大乗仏教および大乗の集団に対してなされた寄進物あるいは支援に言及したものは、まったく存在しません。
二世起〜五世紀にかけて、広範囲にわたる出家および在家の寄進者の寄進の意図や目標や願いを記録した碑文はいく百とありますが、例外的な不完全な一つのもの(※1)を除けば
ルイ・ドラヴァレ・プサンが大乗を明示する第一の指標(※2)として掲げたような言葉に言及した文章は何一つ存在しません。(p18)

※ 1 二世紀か三世紀のマトゥ−ラの孤立碑文
※ 2「大乗とは仏陀の特質への情熱であると規定される」 
※ 1,2は私(名無し)が本文より抜き出して附記したもの。


99 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/03 23:29

美術史の資料を見ても、やはり一つの例外を除けばまったく同じ事が言えます。エティエンヌ・ラモットがずっと以前に述べたことに関しても同様です。
つまり「ガンダ−ラ学派は、仏教の神々に関する小乗の概念をまだ表現していない。マトゥ−ラでも同じ事が確認されアマラ−ヴァティ−と
ナ−ガ−ルジュナコンダでも同様事が確認され」ました。そして五世紀になるまでまでは「大乗の偉大なる救済者である観音や文殊は
何らその痕跡すら発見されていない」のです。この場合の例外とは先に述べたまさしくその例外を指しています。
このマトゥ−ラ出土の二世紀か三世紀の原始大乗の碑文は、阿弥陀仏像であったものの基部に記されています。これ以外には、
他の少数の彫像を大乗の像として認めようと試みる人もいますが、五世紀になるまでは、大乗の特徴をよく備えた仏陀や菩薩と
確信し得る彫像は、インドにおいては、どこにも、ただの一つもありません。(p19)


100 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/03 23:30

碑文と美術資料との研究から判明した事柄は、結局、アンドレ・バロ−教授が近年行ったように、法顕の旅行記を詳細に読み返すことによって確認されました。
バロ−教授は「極めて稀な例外を除けば、インドには明確に大乗である要素はほとんどないと法顕は記している」と言い、「もし彼の説明を承認するならば、
五世紀初頭のインド仏教徒の信仰対象はほとんど初期経典に説かれている仏陀である」と述べ、最後に「それゆえ法顕の旅行記全体を通してわれわれには
五世紀初頭のインド仏教はもっぱら小乗のみであったとおもわれる」と注記しています。(p19〜20)

101 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/03 23:31

さて、確実に大乗の名称を記した最初期のものは、インドの正反対の二つの地方から出土していますが、
両者は共に五世紀後半か六世紀前半の頃のものです。これらの内、一つはベンガル州のグナイガルのもので、
数区画の土地の寄進が「大乗の信奉者にして不退転なる僧伽に対して」なされたことが記されています。
他の一つはオリッサ州のジャヤランプ−ルのもので、一つの村を「大乗の僧伽」に寄付することが記録されています。(p21)



102 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/03 23:33

五,六世紀以前、大乗はどこに存在していたのか、いいかえれば、大乗経典と呼ばれるもの
を作った個々の人々が、社会的にも制度的にもどこに存在していたかということはわれわれの
手もとにある経典文献からはただ推測するしかありません。推測は必ずしも賭けの確実な儲け
ではありませんが、その文献でさえ、インドにおける初期大乗の根拠地が辺境の二つの地方で
あったことを事実上示唆しているように思われます。(p24)



103 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/03 23:38

もし初期大乗のいくつかの集団が、支配的な小乗の僧院組織の中に制度的にはめ込まれつつも、辺境に取り残された、
戦闘的な、一部の組織であるとすれば、他の大乗の集団は、また別の意味で「辺境の」存在であったでしょう。
つまり、彼らは小乗の僧院とそりが合わず、必ずしも歓迎されず、支援者と既成仏教の僧院および聖地の
どちらにも近づくことを制限されて森林に生活する、孤立した小集団であったでしょう。(p28)


<引用終わり>



104 :乾闥婆:02/06/03 23:51
>名無しさん

引用ありがとうございます。
きのう本屋に行って手に取ってみたのですが、
面白そうだったので買ってしまいました。
序章はかなり刺激的な内容でした。
第1章に入りラモット氏の説への批判に入ったところで、
とても分かり難くなりました。文章に今ひとつ整合性がないような・・・
もう少し読み進めてみます。

105 :ひゃっきまる:02/06/04 02:29
>>87 名無しさん

 ああ、やはりみさきさんだったのですね。当時このスレを賑わせていた方々では
ZEGAさんしかコンタクトがとれなかったので、大変嬉しいです。また、大変勉強さ
れているようで、頭が下がります。

>「説得力を欠いてる」というのは評価の問題なので基本的に各個人の価値判断に
よるものですから、論証の対象とはなりませんね(^_^;) 
>ですから、他者が出来る範囲は、『前提条件→判断』における、前提となる事実
認識に誤りがあればそれを批判論証することでしょう。

 う〜ん、確かにそうであるし、まずは前提条件をきちんを煮詰めることがもっと
も大事なのでしょうね。ただ、個人の判断で済まされてはいけない問題も宗教には
あると思います。例えば、我々がここで議論しているような「宗教(教義)的歴史
観」と「学問(実際)的歴史観」の差異については、少なくとも創価学会では教え
られていません。例えそれが信仰上、積極的に教える類のものではないとしても、
これは非常に大きな問題となると思います。

 ふみこんでこの問題を追及すれば、本来は「個人の価値判断」にまかされるべき
ものを、その選択自体ができないようにするものだからです(少々意地悪な解釈か
もしれませんが、このほかにも問題はあります)。


106 :ひゃっきまる:02/06/04 02:30
>>88-89
>歴史上の釈迦より上位の存在と考えていたでしょね。
>そうすると、「歴史的個人」と「応身」としての釈迦を区別して考えるという発
想は無かったかもしれません。

 そもそも、大聖人の時代はもちろんのこと、現代でも歴史上の釈尊と経典上の
(ある部分では人間を超えた存在である)釈尊を区別することはしていないでしょ
う。分けて考える必要は「大乗非仏説」がもちあがったときにはじめて生じてくる
問題のはずです。もちろん「法身」「応身」というのは仏の現れ方の区別であり、
それらとは無関係であると思います(矛盾を解消するために考えられた概念ではな
い)。

>そうすると「法華経は実在した釈迦の言葉とは思えない」という感覚は当時の仏
教徒には起りにくい疑問でしょう。

 もちろん「実在した釈迦の言葉」と思っていたに違いありません。例え法華経に
展開される出来事が信じがたいことであっても、(むしろそうだからこそ)それを
信じていたはずです。

 そして、これらの考えがあったからこそ、つい近年まで「大乗非仏説」は強い迫
害を受けつづけてきたのではありませんか? もし歴史上の釈尊と経典上の釈尊を
分けて考えて何の問題もないならば、殊更「実際はどうであったのか?」というこ
とにこだわる必要はないはずです。

>現代人の観点からのそのような疑問を起こして「信仰を捨てる」人がいるかどう
かわかりません。

 法華経を説いた人間が釈尊自身ではなく、法華経の内容自体も架空のものである
(法華経に描かれる出来事が歴史上起こっていないのならば架空です)というだけ
でもそれは充分なのでは・・・? もちろんこれは単純すぎる見方ですが、少なく
とも法華経信仰が他教・他宗を批判・否定できるだけの充分な正統性を持ちうるか
は、現代では極めてあやういとはいえないでしょうか。

107 :ひゃっきまる:02/06/04 02:31
>>90-93
>大乗非仏説という批判の前提には経や律の内容に対する差異とそれらのの担い手
の問題の二点があると思う。

 仏教という宗教を考えた場合、それは釈尊個人の考えを保ち継承していく、とい
うものではなく、むしろそれぞれが覚り、それぞれが行を通して法を見出していく、
というものであると思います。ですから僕は教えの一貫性にはさほどこだわるつも
りはありません。また、大乗仏教の中に部派仏教において忘れられた重要なエッセ
ンスが受け継がれている、というのも個人的には実感として分かります。

 ただ、もし教えの中に「虚偽」が含まれているとしたらこれは問題であると思い
ます。例えば釈尊が説いたかのようにして自説を説いたのだとしたら、これは虚偽
を信徒に教えることになります。

 もちろんそれを説いた人間にとっては「真実」であったのかもしれません。例え
ば瞑想の世界で、あるいは宗教的な感覚でそのような出来事を知った、というよう
な。釈尊を神とするような信仰形態であれば充分にありうることです。しかしそれ
が歴史上の事実と異なればやはり虚偽になるはずです。

108 :ひゃっきまる:02/06/04 02:32
>>94
>宗教のいう唯一絶対は宗教レヴェルという「限定された範囲」の中で言い得るわ
けでしょう。

 そうでしょうか。僕の宗教観では、宗教は「限定された範囲」どころか、およそ
この世の中のあらゆることを包括する範囲をもつものです。なぜなら究極の普遍を
説くものが宗教だからです。もちろん宗教観の違いですから、どちらが正しいとい
うわけではないでしょう。しかし宗教が宗教という範囲の中でしか真実を語れない
のならば、そのような宗教はどうなのだろう?と思います。


>教判が「思想性」を基準にしている以上、「普遍性」が確保されているわけだか
ら日蓮の思想がダメ−ジを受けるとは思えないです。

 確かに仮に全ての仏説が、(釈尊が説いたものがそうであったように、)純粋に
「思想性」を説くものであればそうだと思います。しかし法華経および法華経信仰、
法華宗各派とはそのようなものなのでしょうか。僕は法華経は教説というよりは、
物語、宗教的イメージ、として捉えるのが自然だと思います。この辺が「「信仰」
と「教説それ自体」の相互の意味関係や評価の差異」なのかもしれませんが・・・。


109 :ひゃっきまる:02/06/04 02:33
>>96 ひゃっきばるくん
カワイーですね・・・。でも君のつくったAAじゃないでしょ?(^^;

110 :政教分離名無しさん:02/06/11 08:47
落ち防止

111 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/13 18:38
亀レス(^_^;)

>確かに仮に全ての仏説が、(釈尊が説いたものがそうであったように、)純粋に 
>「思想性」を説くものであればそうだと思います。しかし法華経および法華経信仰、
>法華宗各派とはそのようなものなのでしょうか。僕は法華経は教説というよりは、
>物語、宗教的イメージ、として捉えるのが自然だと思います。

>僕の宗教観では、宗教は「限定された範囲」どころか、およそこの世の中のあらゆること>を包括する範囲をもつものです。なぜなら究極の普遍を説くものが宗教だからです。

釈迦の仏教の普遍性と限界について。
釈迦の仏教は「自力型の解脱主義」ですから、宗教ということさえ適切とはおもえません。一方、日蓮の教えは、法然・親鸞の浄土教と同様、
基本的には信を基本とした「他力救済型」の仏教だと思います(私的には)。すくなくとも信の部分のみは共有可能なので地域性や時間性を超えた普遍性を持ちうると思う。


112 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/13 18:40
釈迦の仏教に万人に開かれた普遍性あるのだろうか。(・_・)

以下、仏伝をみるかぎり、釈迦の出家はきわめて個人的な動機によるものと思われます。彼は比較的恵まれた環境で育ち、同時にその立場にふさわしい役割も期待されていたはずです。しかし彼はそれを捨てて出家修行者になりました。
彼は「俗世間の価値」を越えたところの価値を求めたわけです。それは人間にとって不可避な苦に関する問題であったわけですから、そのテ−マ自体は人間にとって「普遍性」をもつもですが、あくまで出家は「個人的動機」によるものでしょう。

また釈迦は「苦行・瞑想」を経て解脱を達成したと言われています。このことは重要です。
つまり彼の六年あまりの修行をみるかぎり、解脱にとって「利他の実践」が必要条件とされなかったことを意味するからです。


113 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/13 18:41
また、悟りを得た時点でさえ、それを他者に説くことを逡巡しています。それは彼の悟りが「微妙・難解で他者に理解しがたい」ものであったからと説明されます。

さらに釈迦の弟子の(初期の)中核は、五人のかつての修行仲間や、舎利弗、目連等の、釈迦と同様の出家修行者達が占めていたことも注意すべきでしょう。これにより、生涯、無一物で禁戒を持って、乞食生活する「プロの修行者達」が説法の主要な対象であったことがわります。


114 :名無し ◆QY3UtxFI :02/06/13 18:43
.
ようするに、釈迦の仏教は出家者を対象に教説と実践が構成されており、その性格は自立的・自己救済型であり、
大乗で強調されるような利他の実践は、悟りの成就には本質的要素となっていないことがわかる。また、
在家帰依者が解脱を求めたしても、俗世間の生活と修行を両立させうる余地は存在しない。(俗世間の
価値観・生活を否定・突破したところに解脱のための教説・実践があるわけだから)

つまり

釈迦の思想には「在家帰依者を解脱に導く教説が存在しなかった」可能性が大きい。(・_・)





115 :乾闥婆:02/06/14 00:04
>>112
>また釈迦は「苦行・瞑想」を経て解脱を達成したと言われています。

ブッダは苦行を経て、というよりも、苦行を捨てることによって、
正覚を得たのではないでしょうか。

>生涯、無一物で禁戒を持って、乞食生活する「プロの修行者達」が
説法の主要な対象であったことがわります。

ご紹介いただいたショペン氏の著著を読む限り、その断定はどうなのでしょうか。
もっとも枝末分裂後の僧の様子がそのままブッダ在世の話ではないでしょうけれど。

利他の実践のその根底に初期仏教を置くことは、より有効な普遍性を
各宗派にもたらしはしないかと考えます。
大乗と切り離して考えることもないように思うのです。
相互に補完できれば、よりいいのでは。

116 :ひゃっきまる:02/06/18 00:21
名無しさん >>111
 同じく亀レス.マターリいきませう。

 名無しさんの釈迦説批判を読んでいて僕が不思議に思ったのは、
名無しさんは信仰者というよりはむしろ学者のような視点で、宗
教の是非を論じているなあ、ということです。

 「学者のような」というのは、宗教の説く教義的事柄を人間の
思考を超えた実在として捉えると言うよりは、むしろ各々の時代
の人間がその時代の必然性に応じて教義を「変更し考え出して」
いった、というような見方です。この辺はどうなのでしょう。

 もし「後者」のような見方を宗教に対してしてしまうとしたら、
「宗教は人間が幸せになるための一種の方便だ」ということを認
めることになりはしないかと思います。

 僕はこれでも、ぎりぎり「前者」の立場として宗教を論じよう
としています。また、それがこの議論を行う人間としての最低限
の条件でさえあるように思うのですが。

 釈迦が、世間を捨て、出家しなければ仏に成ることはできない、
と考えていたかはわかりませんが、「もしそれが真実であるなら
ば」、真実であるがゆえにそれは普遍性をもつということになる
と思います。もし出家しなくても仏に成る、ということを説くも
のがあったとしても、それは偽であるゆえに仏には成れないから
です。

 僕は別に釈迦説を支持したいわけではありません。僕が日蓮仏
法に致命的な落ち度があると思うのと同様に、原始仏教(と推定
される教説)にも現代から見れば様々な落ち度があると思うから
です。

 ただ、釈迦由来のものに限らず、仏教の中には哲学的な意味で
の普遍的要素がふんだんにちりばめられているように感じていま
す。その先駆となったのはやはり釈尊であろうと思います。しか
し、後世の人物達による様々な意味での「絶対化」が仏教をまる
で違う宗教に変貌させていったような気がします。

117 :ひゃっきまる:02/06/18 00:22
失礼! このスレはsage進行です。ご協力お願いします。

118 :政教分離名無しさん:02/06/24 22:26
落ち防止

119 :ひゃっきまる:02/07/06 17:28 ID:BSidSvlJ
test

120 :ひゃっきまる:02/07/06 17:58 ID:???
創価公明板が破壊されたときに使っていたスレです。

「日蓮って(仮設)」
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1025454717/l50

121 :名無しさん@お腹いっぱい。:02/07/09 00:54 ID:JGM7Dzu+
oti防止

122 :ひゃっきまる:02/07/13 20:55 ID:W0UvkjjW
あげです。

123 :Σミ ̄□ ̄;ミ@はにわ ◆2UdgniEw :02/07/14 16:57 ID:ZGUdvxXh
優良スレはあげておく。

っつーか最近コテハンがかなり減っている。。。

はにわファンタンもこなくなっちゃったし、北条閣下も見てないらしい。
もはや、ひゃっきまるさんだけが頼りです。がむばってください。

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